なったなり、溢《あふ》れて来る涙を抑《おさ》えようとするのか、じっと薄い下唇《したくちびる》を噛んだ。見れば蒼白い頬《ほお》の底にも、眼に見えない炎《ほのお》のような、切迫した何物かが燃え立っている。震《ふる》える肩、濡れた睫毛《まつげ》、――男はそれらを見守りながら、現在の気もちとは没交渉に、一瞬間妻の美しさを感じた。
「ですけれども、――この部屋は嫌《いや》なんですもの。」
「だからさ、だからさっきもそう云ったじゃないか? 何故《なぜ》この部屋がそんなに嫌だか、それさえはっきり云ってくれれば、――」
 男はここまで云いかけると、敏子の眼がじっと彼の顔へ、注《そそ》がれているのに気がついた。その眼には涙の漂《ただよ》った底に、ほとんど敵意にも紛《まが》い兼ねない、悲しそうな光が閃《ひらめ》いている。何故この部屋が嫌になったか? ――それは独り男自身の疑問だったばかりではない。同時にまた敏子が無言《むごん》の内に、男へ突きつけた反問である。男は敏子と眼を合せながら、二の句を次ぐのに躊躇《ちゅうちょ》した。
 しかし言葉が途切《とぎ》れたのは、ほんの数秒の間《あいだ》である。男の顔には見
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