える? だってここへはやっと昨夜《ゆうべ》、引っ越して来たばかりじゃないか?」
男の顔はけげんそうだった。
「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば明《あ》いているでしょう?」
男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの剥《は》げた窓側《まどがわ》の壁には、色の変った畳の上に更紗《さらさ》の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵《ジェラニアム》が、薄い埃《ほこり》をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町《よこちょう》に、麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶった支那《シナ》の車夫が、所在なさそうにうろついている。………
「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌《いや》だ嫌だと云っていたじゃないか?」
「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が嫌《いや》になったんですもの。」
女は針の手をやめると、もの憂《う》そうに顔を挙げて見せた。眉《まゆ》の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの暈《かさ》を見ても、何か苦労を堪《こら》
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