透《す》いたのも見える。やや長めな揉《も》み上《あ》げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。
 この姿見のある部屋には、隣室の赤児の啼《な》き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。未《いまだ》に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。
「あなた。」
 そう云う何分《なんぷん》かが過ぎ去った後《のち》、女は仕事を続けながら、突然、しかし覚束《おぼつか》なさそうに、こう誰かへ声をかけた。
 誰か、――部屋の中には女のほかにも、丹前《たんぜん》を羽織《はお》った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々《ながなが》と腹這《はらば》いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、巻煙草《まきたばこ》の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。
「あなた。」
 女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」
 男は幾分うるさそうに、丸々《まるまる》と肥った、口髭《くちひげ》の短い、活動家らしい頭を擡《もた》げた。
「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって?」
「部屋を変
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