いじめるわよ。よくって? ハムモックを解いてしまうわよ。――」
敏子は男を睨《にら》むようにした。が、眼にも唇にも、漲《みなぎ》っているものは微笑である。しかもほとんど平静を失した、烈しい幸福の微笑である。男はこの時妻の微笑に、何か酷薄《こくはく》なものさえ感じた。日の光に煙った草木《くさき》の奥に、いつも人間を見守っている、気味の悪い力に似たものさえ。
「莫迦《ばか》な事をするなよ。――」
男は葉巻を投げ捨てながら、冗談《じょうだん》のように妻を叱った。
「第一あの何とか云った、お隣の奥さんにもすまないじゃないか? あっちじゃ子供が死んだと云うのに、こっちじゃ笑ったり騒いだり、……」
すると敏子はどうしたのか、突然蒼白い顔になった。その上|拗《す》ねた子供のように、睫毛《まつげ》の長い眼を伏せると、別に何と云う事もなしに、桃色の手紙を破り出した。男はちょいと苦《にが》い顔をした。が、気まずさを押しのけるためか、急にまた快活に話し続けた。
「だがまあ、こうしていられるのは、とにかく仕合せには違いないね。上海《シャンハイ》にいた時には弱ったからな。病院にいれば気ばかりあせるし、いな
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