ければまた心配するし、――」
 男はふと口を噤《つぐ》んだ。敏子は足もとに眼をやったなり、影になった頬《ほお》の上に、いつか涙を光らせている。しかし男は当惑そうに、短い口髭《くちひげ》を引張ったきり、何ともその事は云わなかった。
「あなた。」
 息苦しい沈黙の続いた後《のち》、こう云う声が聞えた時も、敏子はまだ夫の前に、色の悪い顔を背《そむ》けていた。
「何だい?」
「私は、――私は悪いんでしょうか! あの赤さんのなくなったのが、――」
 敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。
「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」
 敏子の声には今までにない、荒々《あらあら》しい力がこもっている。男はワイシャツの肩や胴衣《チョッキ》に今は一ぱいにさし始めた、眩《まばゆ》い日の光を鍍金《めっき》しながら、何ともその問に答えなかった。何か人力に及ばないものが、厳然と前へでも塞《ふさ》がったように。
[#地から1字上げ](大正十年八月)



底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑
前へ 次へ
全22ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング