葉は無心の内に、もう一度女を打ったのである。
「お宅の坊ちゃんは、――坊ちゃんでございましたわね? いつ御生れになりましたの?」
 敏子は髪へ手をやりながら、ちらりと女の顔を眺めた。昨日《きのう》は泣き声を聞いているのも堪えられない気がした隣室の赤児、――それが今では何物よりも、敏子の興味を動かすのである。しかもその興味を満足させれば、反《かえ》って苦しみを新たにするのも、はっきりわかってはいるのである。これは小さな動物が、コブラの前では動けないように、敏子の心もいつのまにか、苦しみそのものの催眠作用に捉《とら》われてしまった結果であろうか? それともまた手傷《てきず》を負った兵士が、わざわざ傷口を開いてまでも、一時の快《かい》を貪《むさぼ》るように、いやが上にも苦しまねばやまない、病的な心理の一例であろうか?
「この御正月でございました。」
 女はこう答えてから、ちょいとためらう気色《けしき》を見せた。しかしすぐ眼を挙げると、気の毒そうにつけ加えた。
「御宅ではとんだ事でございましたってねえ。」
 敏子は沾《うる》んだ眼の中に、無理な微笑を漂わせた。
「ええ、肺炎《はいえん》になりま
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