《あみばり》を休めたまま、子供のように微笑した。
「時にね、お清さん。」
「何でございます? 真面目《まじめ》そうに。」
 女中も出窓の日の光に、前掛《まえかけ》だけくっきり照らさせながら、浅黒い眼もとに微笑を見せた。
「御隣の野村《のむら》さん、――野村さんでしょう、あの奥さんは?」
「ええ、野村敏子さん。」
「敏子さん? じゃ私《わたし》と同じ名だわね。あの方はもう御立ちになったの?」
「いいえ、まだ五六日は御滞在《ごたいざい》でございましょう。それから何でも蕪湖《ウウフウ》とかへ、――」
「だってさっき前を通ったら、御隣にはどなたもいらっしゃらなかったわよ。」「ええ、昨晩《さくばん》急にまた、三階へ御部屋が変りましたから、――」
「そう。」
 女は何か考えるように、丸々《まるまる》した顔を傾けて見せた。
「あの方でしょう? ここへ御出でになると、その日に御子さんをなくなしたのは?」
「ええ。御気の毒でございますわね。すぐに病院へも御入れになったんですけれど。」
「じゃ病院で御なくなりなすったの? 道理で何にも知らなかった。」
 女は前髪《まえがみ》を割った額《ひたい》に、かすかな憂鬱の色を浮べた。が、すぐにまた元の通り、快活な微笑を取り戻すと、悪戯《いたずら》そうな眼つきになった。
「もうそれで御用ずみ。どうかあちらへいらしって下さい。」
「まあ、随分でございますね。」
 女中は思わず笑い出した。
「そんな邪慳《じゃけん》な事をおっしゃると、蔦《つた》の家《や》から電話がかかって来ても、内証《ないしょ》で旦那様へ取次ぎますよ。」
「好《い》いわよ。早くいらっしゃいってば。紅茶がさめてしまうじゃないの?」
 女中が出窓にいなくなると、女はまた編物を取り上げながら、小声に歌をうたい出した。
 午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。部屋|毎《ごと》の花瓶に素枯《すが》れた花は、この間《あいだ》に女中が取り捨ててしまう。二階三階の真鍮《しんちゅう》の手すりも、この間に下男《ボオイ》が磨くらしい。そう云う沈黙が拡《ひろ》がった中に、ただ往来のざわめきだけが、硝子《ガラス》戸を開《あ》け放した諸方の窓から、日の光と一しょにはいって来る。
 その内にふと女の膝《ひざ》から、毛糸の球《たま》が転げ落ちた。球はとんと弾《はず》むが早いか、一筋
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