の赤を引きずりながら、ころころ廊下《ろうか》へ出ようとする、――と思うと誰か一人、ちょうどそこへ来かかったのが、静かにそれを拾い上げた。
「どうも有難《ありがと》うございました。」
女は籐椅子《とういす》を離れながら、恥しそうに会釈《えしゃく》をした。見れば球を拾ったのは、今し方女中と噂をした、痩《や》せぎすな隣室の夫人である。
「いいえ。」
毛糸の球は細い指から、脂《あぶら》よりも白い括《くく》り指へ移った。
「ここは暖かでございますね。」
敏子は出窓へ歩み出ると、眩《まぶ》しそうにやや眼を細めた。
「ええ、こうやって居りましても、居睡《いねむ》りが出るくらいでございますわ。」
二人の母は佇《たたず》んだまま、幸福そうに微笑し合った。
「まあ、御可愛いたあた[#「たあた」に傍点]ですこと。」
敏子の声はさりげなかった。が、女はその言葉に、思わずそっと眼を外《そ》らせた。
「二年ぶりに編針を持って見ましたの。――あんまり暇なもんですから。」
「私なぞはいくら暇でも、怠《なま》けてばかり居りますわ。」
女は籐椅子《とういす》へ編物を捨てると、仕方がなさそうに微笑した。敏子の言葉は無心の内に、もう一度女を打ったのである。
「お宅の坊ちゃんは、――坊ちゃんでございましたわね? いつ御生れになりましたの?」
敏子は髪へ手をやりながら、ちらりと女の顔を眺めた。昨日《きのう》は泣き声を聞いているのも堪えられない気がした隣室の赤児、――それが今では何物よりも、敏子の興味を動かすのである。しかもその興味を満足させれば、反《かえ》って苦しみを新たにするのも、はっきりわかってはいるのである。これは小さな動物が、コブラの前では動けないように、敏子の心もいつのまにか、苦しみそのものの催眠作用に捉《とら》われてしまった結果であろうか? それともまた手傷《てきず》を負った兵士が、わざわざ傷口を開いてまでも、一時の快《かい》を貪《むさぼ》るように、いやが上にも苦しまねばやまない、病的な心理の一例であろうか?
「この御正月でございました。」
女はこう答えてから、ちょいとためらう気色《けしき》を見せた。しかしすぐ眼を挙げると、気の毒そうにつけ加えた。
「御宅ではとんだ事でございましたってねえ。」
敏子は沾《うる》んだ眼の中に、無理な微笑を漂わせた。
「ええ、肺炎《はいえん》になりま
前へ
次へ
全11ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング