る見る内に、了解の色が漲《みなぎ》って来た。
「あれか?」
 男は感動を蔽《おお》うように、妙に素《そ》っ気《け》のない声を出した。
「あれは己も気になっていたんだ。」
 敏子は男にこう云われると、ぽろぽろ膝の上へ涙を落した。
 窓の外にはいつのまにか、日の暮が雨を煙らせている。その雨の音を撥《は》ねのけるように、空色の壁の向うでは、今もまた赤児《あかご》が泣き続けている。………

        二

 二階の出窓《でまど》には鮮《あざや》かに朝日の光が当っている。その向うには三階建の赤煉瓦《あかれんが》にかすかな苔《こけ》の生えた、逆光線の家が聳えている。薄暗いこちらの廊下《ろうか》にいると、出窓はこの家を背景にした、大きい一枚の画《え》のように見える。巌乗《がんじょう》な槲《かし》の窓枠《まどわく》が、ちょうど額縁《がくぶち》を嵌《は》めたように見える。その画のまん中には一人の女が、こちらへ横顔を向けながら、小さな靴足袋《くつたび》を編んでいる。
 女は敏子《としこ》よりも若いらしい。雨に洗われた朝日の光は、その肉附きの豊かな肩へ、――派手《はで》な大島の羽織の肩へ、はっきり大幅に流れている。それがやや俯向《うつむ》きになった、血色の好《い》い頬に反射している。心もち厚い唇の上の、かすかな生《う》ぶ毛《げ》にも反射している。
 午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。商売に来たのも、見物に来たのも、泊《とま》り客は大抵《たいてい》外出してしまう。下宿している勤《つと》め人《にん》たちも勿論午後までは帰って来ない。その跡にはただ長い廊下に、時々|上草履《うわぞうり》を響かせる、女中の足音だけが残っている。
 この時もそれが遠くから、だんだんこちらへ近づいて来ると、出窓に面した廊下には、四十|格好《がっこう》の女中が一人、紅茶の道具を運びながら、影画《かげえ》のように通りかかった。女中は何とも云われなかったら、女のいる事も気がつかずに、そのまま通りすぎてしまったかも知れない。が、女は女中の姿を見ると、心安そうに声をかけた。
「お清《きよ》さん。」
 女中はちょいと会釈《えしゃく》してから、出窓の方へ歩み寄った。
「まあ、御精《ごせい》が出ますこと。――坊ちゃんはどうなさいました?」
「うちの若様? 若様は今お休み中。」
 女は編針
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング