そんなに悪い所じゃないぜ。第一社宅は大きいし、庭も相当に広いしするから、草花なぞ作るには持って来いだ。何でも元は雍家花園《ようかかえん》とか云ってね、――」 
 男は突然口を噤《つぐ》んだ。いつか森《しん》とした部屋の中には、かすかに人の泣くけはいがしている。
「おい。」
 泣き声は急に聞えなくなった。と思うとすぐにまた、途切《とぎ》れ途切れに続き出した。
「おい。敏子《としこ》。」
 半ば体を起した男は、畳に片肘《かたひじ》靠《もた》せたまま、当惑《とうわく》らしい眼つきを見せた。
「お前は己《おれ》と約束したじゃないか? もう愚痴《ぐち》はこぼすまい。もう涙は見せない事にしよう。もう、――」
 男はちょいと瞼《まぶた》を挙げた。
「それとも何かあの事以外に、悲しい事でもあるのかい? たとえば日本へ帰りたいとか、支那でも田舎《いなか》へは行きたくないとか、――」
「いいえ。――いいえ。そんな事じゃなくってよ。」
 敏子は涙を落し落し、意外なほど烈《はげ》しい打消し方をした。
「私はあなたのいらっしゃる所なら、どこへでも行く気でいるんです。ですけれども、――」
 敏子は伏眼《ふしめ》になったなり、溢《あふ》れて来る涙を抑《おさ》えようとするのか、じっと薄い下唇《したくちびる》を噛んだ。見れば蒼白い頬《ほお》の底にも、眼に見えない炎《ほのお》のような、切迫した何物かが燃え立っている。震《ふる》える肩、濡れた睫毛《まつげ》、――男はそれらを見守りながら、現在の気もちとは没交渉に、一瞬間妻の美しさを感じた。
「ですけれども、――この部屋は嫌《いや》なんですもの。」
「だからさ、だからさっきもそう云ったじゃないか? 何故《なぜ》この部屋がそんなに嫌だか、それさえはっきり云ってくれれば、――」
 男はここまで云いかけると、敏子の眼がじっと彼の顔へ、注《そそ》がれているのに気がついた。その眼には涙の漂《ただよ》った底に、ほとんど敵意にも紛《まが》い兼ねない、悲しそうな光が閃《ひらめ》いている。何故この部屋が嫌になったか? ――それは独り男自身の疑問だったばかりではない。同時にまた敏子が無言《むごん》の内に、男へ突きつけた反問である。男は敏子と眼を合せながら、二の句を次ぐのに躊躇《ちゅうちょ》した。
 しかし言葉が途切《とぎ》れたのは、ほんの数秒の間《あいだ》である。男の顔には見
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