える? だってここへはやっと昨夜《ゆうべ》、引っ越して来たばかりじゃないか?」
男の顔はけげんそうだった。
「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば明《あ》いているでしょう?」
男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの剥《は》げた窓側《まどがわ》の壁には、色の変った畳の上に更紗《さらさ》の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵《ジェラニアム》が、薄い埃《ほこり》をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町《よこちょう》に、麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶった支那《シナ》の車夫が、所在なさそうにうろついている。………
「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌《いや》だ嫌だと云っていたじゃないか?」
「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が嫌《いや》になったんですもの。」
女は針の手をやめると、もの憂《う》そうに顔を挙げて見せた。眉《まゆ》の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの暈《かさ》を見ても、何か苦労を堪《こら》えている事は、多少想像が出来ないでもない。そう云えば病的な気がするくらい、米噛《こめか》みにも静脈《じょうみゃく》が浮き出している。
「ね、好《い》いでしょう。……いけなくて?」
「しかし前の部屋よりは、広くもあるし居心《いごころ》も好《い》いし、不足を云う理由はないんだから、――それとも何か嫌《いや》な事があるのかい?」
「何って事はないんですけれど。……」
女はちょいとためらったものの、それ以上立ち入っては答えなかった。が、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返した。
「いけなくって、どうしても?」
今度は男が新聞の上へ煙草《たばこ》の煙を吹きかけたぎり、好《い》いとも悪いとも答えなかった。
部屋の中はまたひっそりになった。ただ外では不相変《あいかわらず》、休みのない雨の音がしている。
「春雨《はるさめ》やか、――」
男はしばらくたった後《のち》、ごろりと仰向《あおむ》きに寝転《ねころ》ぶと、独り言のようにこう云った。
「蕪湖《ウウフウ》住みをするようになったら、発句《ほっく》でも一つ始めるかな。」
女は何とも返事をせずに、縫物の手を動かしている。
「蕪湖《ウウフウ》も
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング