も、さすがにあたりの人目だけは憚《はばか》っているのに違いなかった。が、その目の定まらない内に、主計官は窓の外へ赤い顔を出しながら、今度は何か振って見せた。
「わんと云え。わんと云えばこれをやるぞ。」
 乞食の顔は一瞬間、物欲しさに燃え立つようだった。保吉は時々乞食と云うものにロマンティックな興味を感じていた。が、憐憫《れんびん》とか同情とかは一度も感じたことはなかった。もし感じたと云うものがあれば、莫迦《ばか》か嘘《うそ》つきかだとも信じていた。しかし今その子供の乞食が頸《くび》を少し反《そ》らせたまま、目を輝かせているのを見ると、ちょいといじらしい心もちがした。ただしこの「ちょいと」と云うのは懸《か》け値《ね》のないちょいとである。保吉はいじらしいと思うよりも、むしろそう云う乞食の姿にレムブラント風の効果を愛していた。
「云わんか? おい、わんと云うんだ。」
 乞食は顔をしかめるようにした。
「わん。」
 声はいかにもかすかだった。
「もっと大きく。」
「わん。わん。」
 乞食はとうとう二声鳴いた。と思うと窓の外へネエベル・オレンジが一つ落ちた。――その先はもう書かずとも好《い》い
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