病者のように、目はやはり上を見たまま、一二歩窓の下へ歩み寄った。保吉はやっと人の悪い主計官の悪戯《あくぎ》を発見した。悪戯?――あるいは悪戯ではなかったかも知れない。なかったとすれば実験である。人間はどこまで口腹《こうふく》のために、自己の尊厳を犠牲《ぎせい》にするか?――と云うことに関する実験である。保吉自身の考えによると、これは何もいまさらのように実験などすべき問題ではない。エサウは焼肉のために長子権《ちょうしけん》を抛《なげう》ち、保吉はパンのために教師《きょうし》になった。こう云う事実を見れば足りることである。が、あの実験心理学者はなかなかこんなことぐらいでは研究心の満足を感ぜぬのであろう。それならば今日生徒に教えた、De gustibus non est Disputandum である。蓼《たで》食《く》う虫も好き好《ず》きである。実験したければして見るが好《い》い。――保吉はそう思いながら、窓の下の乞食を眺めていた。
 主計官はしばらく黙っていた。すると乞食《こじき》は落着かなそうに、往来《おうらい》の前後を見まわし始めた。犬の真似《まね》をすることには格別異存はないにして
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