゙は生徒に訳読《やくどく》をさせながら、彼自身先に退屈し出した。こう云う時ほど生徒を相手に、思想問題とか時事問題とかを弁《べん》じたい興味に駆《か》られることはない。元来教師と云うものは学科以外の何ものかを教えたがるものである。道徳、趣味《しゅみ》、人生観、――何と名づけても差支《さしつか》えない。とにかく教科書や黒板よりも教師自身の心臓《しんぞう》に近い何ものかを教えたがるものである。しかし生憎《あいにく》生徒と云うものは学科以外の何ものをも教わりたがらないものである。いや、教わりたがらないのではない。絶対に教わることを嫌悪《けんお》するものである。保吉はそう信じていたから、この場合も退屈し切ったまま、訳読を進めるより仕かたなかった。
 しかし生徒の訳読に一応耳を傾けた上、綿密《めんみつ》に誤《あやまり》を直したりするのは退屈しない時でさえ、かなり保吉には面倒《めんどう》だった。彼は一時間の授業時間を三十分ばかり過《すご》した後《のち》、とうとう訳読を中止させた。その代りに今度は彼自身一節ずつ読んでは訳し出した。教科書の中の航海は不相変《あいかわらず》退屈を極めていた。同時にまた彼の
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