には頭の禿《は》げたタウンゼンド氏のほかに誰もいない。しかもこの老教師は退屈まぎれに口笛《くちぶえ》を吹き吹き、一人ダンスを試みている。保吉はちょいと苦笑したまま、洗面台の前へ手を洗いに行った。その時ふと鏡《かがみ》を見ると、驚いたことにタウンゼンド氏はいつのまにか美少年に変り、保吉自身は腰の曲った白頭《はくとう》の老人に変っていた。

     恥《はじ》

 保吉《やすきち》は教室へ出る前に、必ず教科書の下調《したしら》べをした。それは月給を貰《もら》っているから、出たらめなことは出来ないと云う義務心によったばかりではない。教科書には学校の性質上海上用語が沢山出て来る。それをちゃんと検《しら》べて置かないと、とんでもない誤訳をやりかねない。たとえば Cat's paw と云うから、猫《ねこ》の足かと思っていれば、そよ風だったりするたぐいである。
 ある時彼は二年級の生徒に、やはり航海のことを書いた、何とか云う小品《しょうひん》を教えていた。それは恐るべき悪文だった。マストに風が唸《うな》ったり、ハッチへ浪《なみ》が打ちこんだりしても、その浪なり風なりは少しも文字の上へ浮ばなかった。
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