の名を博してよりこのかた、僕のことを御兄様と呼んだり、僕の写真を欲しがつたりする美人の手紙などの来たことはない。況《いはん》や僕の手巾《ハンケチ》を貰へば、「処女として最も清く尊きものを差上げます。」と言ふ春風万里《しゆんぷうばんり》の手紙をやである。僕の思はず瞠目《だうもく》したのも偶然ではないと言はなければならぬ。
 けれども偶《たまたま》かう言つたにしろ、直ちに僕を軽蔑するならば、それは勿論《もちろん》大早計である。僕にも亦《また》時に好意を表する女性の読者のない訣《わけ》ではない。彼等の一人《ひとり》は去年の夏、のべつに僕に手紙をよこした。しかもそれ等は内容証明でなければ必ず配達証明だつた。僕は万事を抛擲《はうてき》して何度もそれ等を熟読《じゆくどく》した。実際又僕には熟読する必要もあつたのに違ひない。それ等はいづれも百円の金を至急返せと言ふ手紙だつた。のみならずそれ等を書いたのは名前も聞いたことのない女性だつた。それから又彼等の或ものは僕の「春服《しゆんぷく》」を上梓《じやうし》した頃、絶えず僕に「アララギ」調の写生の歌を送つて来た。歌はうまいのかまづいのか、散文的な僕にはわ
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