からなかつた。いや、必ずしも一首残らずわからなかつた次第ではない。「日の下《した》の入江《いりえ》音なし息づくと見れど音こそなかりけるかも」などは確かに僕にもうまいらしかつた。けれどもこの歌はとうの昔にもう斎藤茂吉《さいとうもきち》君の歌集に出てゐるのに違ひなかつた。それから又彼等の或ものは僕の支那へ出かけた留守《るす》に僕に会ひに上京した。僕は勿論不幸にも彼女に会ふことは出来なかつた。が、彼女は半月ほどした後《のち》、はるばる僕に一すぢの葡萄色《ぶだういろ》のネク・タイを送つて来た。何《なん》でも彼女の手紙によれば、それは明治天皇の愛用し給うたネク・タイであり、彼女のそれを送つて来たのは何年か前に墓になつた母の幽霊の命令に従つたものだとか言ふことだつた。それから又彼等の或ものは、……
兎《と》に角《かく》僕にも手紙を寄せた女性の読者のゐることは疑ふべからざる事実である。が、彼等は僕に対するや、水上《みなかみ》君に対するやうに纏綿《てんめん》たる情緒《じやうしよ》を示したことはない。これは抑《そもそ》も何《なん》の為であらうか? 僕は僕に手紙を寄せた何人かの天涯《てんがい》の美人を考
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