文壇に幅を利《き》かせてゐるのは必ずしも小説や戯曲ではない。寧《むし》ろ人麻呂《ひとまろ》以来の短歌であり、芭蕉《ばせを》以来の俳句である。それを小説や戯曲ばかり幅を利《き》かせてゐるやうに誣《し》ひられるのは少くとも善良なる僕等には甚だ迷惑と言はなければならぬ。のみならず短歌や俳句ばかりいつまでも幅を利かせてゐるのは勿論不公平を極めてゐる。サント・ブウヴも或は高きにゐてユウゴオやバルザツクを批評したかも知れない。が、ミユツセを批評する時にも格別「わたしは素人《しろうと》であるが」と帽子を脱がなかつたのは確かである。堂堂たる日本の批評家たちもちつとは僕等に同情して横暴なる歌人や俳人の上に敢然と大鉄槌《だいてつつゐ》を下《くだ》すが好《よ》い。若し又それは出来ないと言ふならば、――僕は当然の権利としてかう批評家たちに要求しなければならぬ。――僕等の作品を批評する時にも一応は帽子《ばうし》を脱いだ上、歌人や俳人に対するやうに「素人であるが」と断《ことわ》り給へ。
艶福
「……自分の如きものにさへ、屡々《しばしば》手紙を寄せて交《かう》を求めた婦人が十指に余る。未《ま》だ御目に
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