世紀の衣魚はことによると、樟脳《しやうなう》やナフタリンも食ふかも知れない。

     或抗議

「文壇に幅を利《き》かせてゐるのはやはり小説や戯曲である。短歌や俳句はいつになつても畢《つひ》に幅を利かせることは出来ない。」――僕の見聞《けんぶん》する所によれば、誰でもかう言ふことを信じてゐる。「誰でも」は勿論小説家や戯曲家ばかりを指《さ》すのではない。歌人や俳人自身さへ大抵《たいてい》かう信じるか、或はかう世間一般に信じてゐられると信じてゐる。が、堂堂たる批評家たちの短歌や俳句を批評するのを見ると、不思議にも決して威張《ゐば》つたことはない。いづれも「わたしは素人《しろうと》であるが」などと謙抑《けんよく》の言を並べてゐる。謙抑の言を並べてゐるのはもとより見上げた心がけである。しかしかう言ふ批評家たちの小説や戯曲を批評するや、決して「素人《しろうと》であるが」とは言はない。恰《あたか》も父母《ふぼ》未生前《みしやうぜん》より小説や戯曲に通じてゐたやうに滔滔《たうたう》、聒聒《くわつくわつ》、絮絮《じよじよ》、綿綿《めんめん》と不幸なる僕等に教《おしへ》を垂《た》れるのである。すると
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