江の蘆荻《ろてき》の間に生じた南宋派の画法に心酔したのも少年らしい情熱を語つてゐる。
 この聡明なる造り酒屋の息子はかう云ふ幸福なる境遇のもとに徐ろに自己を完成した。その自己は大雅のやうに純乎《じゆんこ》として純なる芸術家ではない。寧ろ人に師たるの芸十六に及んだと伝へられる柳里恭に近いディレツタントである。が、柳里恭のディレツタンティズムは超凡の才力を負うてゐると共に、デカダンスの臭味もない訳ではない。少くとも随筆「独寝《ひとりね》」の中に男子一生の学問をも傾城の湯巻に換へんと言つた通人の面目のあることだけは兎も角も事実と言はなければならぬ。しかし巽斎のディレツタンティズムは変通自在の妙のない代りに、如何にも好箇の読書人らしい清目なる風格を具へてゐる。柳里恭は乞食の茶を飲んだり、馬上に瞽女《ごぜ》の三味線を弾いたり、あらゆる奇行を恣《ほしいまま》にした。或は恣にしたと伝へられてゐる。けれども巽斎に関する伝説は少しも常軌を逸してゐない。まづ世人を驚かしたと云ふのも、「江戸の筆工|鳳池堂《ほうちだう》のあるじ浪華に遊びしところ、蒹葭堂を訪ひしに、しばし待たせ給はれ、その中の慰みにとて一帖を出せり。いかなるものぞと開き見れば、江戸の筆工の家号をしるしたる名紙といふものを一枚の遺漏もなく集めたりしとぞ」(山崎美成《やまざきびせい》)と云ふ程度の逸話ばかりである。尤もこの逸話にしても、「その好事の勝れたる想像すべし」と云ふより外に考へられない次第ではない。巽斎は明らかに鳳池堂の主人へ無言の一拶を与へてゐる。更に無造作に言ひ換へれば、アルバムに満載した筆屋の名刺を「どうだ?」とばかりに突きつけてゐる。その辺は勿論辛辣なる機鋒を露はしてゐるのに違ひない。しかし柳里恭に比べれば、――殊に「独寝」の作者たる柳里恭に比べれば、はるかに温乎《をんこ》たる長者の風を示してゐることは確かである。
「余幼年より絶えて知らざること、古楽、管絃、猿楽、俗謡、碁棋《ごき》、諸勝負、妓館、声色の遊、総《すべ》て其の趣を得ず。況や少年より好事多端《かうずたたん》暇なき故なり。勝負を好まざるは余|頤養《いやう》の意あればなり。」
 巽斎の所謂娯楽なるものに少しも興味のなかつたことはこの一節の示す通りである。
「余が嗜好の事専ら奇書にあり。名物多識の学、其他書画碑帖の事、余微力と雖も数年来百費を省き収る所書籍に不足なし。過分と云ふべし。其の外収蔵の物、本邦古人書画、近代儒家文人詩文、唐山真蹟書画、本邦諸国地図、唐山蛮方地図、草木金石珠玉点介鳥獣、古銭古器物、唐山器物、蛮方異産の類ありと雖も、皆考索の用とす。他の艶飾の比にあらず。」
 巽斎は是等のコレクシヨンを愛し、蒹葭堂を訪れる遠来の客に是等のコレクシヨンを示すことを愛した。いや、コレクシヨンと云ふよりも寧ろ宛然《ゑんぜん》たる博物館である。年少の友だつた田能村竹田《たのむらちくでん》の、「収蔵せる法書、名画、金石、彝鼎《いてい》、及び夷蛮《いばん》より出づる所の異物奇品|棟宇《とうう》に充積す」と言つたのも必しも誇張ではなかつたであらう。巽斎は是等のコレクシヨンを「皆考索の用とす」と言つた。唐山蛮方の地図の中には欧羅巴《ヨーロツパ》亜米利加《アメリカ》の大陸もはるかに横はつてゐた筈である。いや、蛮方異産の類の中には更紗だの、銅版画だの、虫眼鏡だの、「ダラアカ」と云ふ龍の子のアルコオル漬だの、或は又クレオパトラの金髪だのも(勿論これは贋物である)交つてゐたのに違ひない。是等のコレクシヨンを「考索した、」この聡明なるディレツタントは不可思議なる文明の種々相の前に、どう云ふ感慨を催したであらうか? 少くとも世界の大の前にどう云ふ夢を夢みたであらうか?
「京子《けいし》浪華《なには》の地《ち》、古《いにしへ》より芸園に名高きもの輩出し、海内《かいだい》に聞ゆるものありといへども、その該博精通、蒹葭堂の如きもの少し。(中略)曾《かつ》て長崎に遊歴せしところ、唐山の風俗を問ひこゝろみ、帰りて後常に黄檗山《わうばくさん》にいたり、大成禅師《だいじやうぜんし》に随ひ遊べることありしに、人ありて唐山の風俗を禅師に問ふものあり。禅師蒹葭堂をさして、この人よくこれを知れり。吾れ談を費すに及ばずといはれたりき。禅師はもと唐山の人にて、投化《とうげ》して黄檗山に住せしなり。」(山崎美成)
「この人よくこれを知れり。吾れ談を費すに及ばず」の言葉は賛辞かどうか疑問である。或は生死の一大事をも外に、多聞を愛するディレツタントへ一棒を加へたものだつたかも知れない。しかも一棒を加へられたにもせよ、如何に巽斎の支那風に精通してゐたかと云ふことは疑ひを容れない事実である。巽斎は云はゞ支那に関する最大の権威の一人だつた。支那の画を愛し、支那の文芸を愛し、支那の哲学を愛した時代のかう云ふ蒹葭堂主人の多識に声誉を酬いたのは当然である。果然海内の文人墨客は巽斎の大名の挙がると共に、続々とその門へ集まり出した。柴野栗山《しばのりつざん》、尾藤《びとう》二|洲《しう》、古賀精里、頼春水、桑山玉洲《くはやまぎよくしう》、釧雲泉《くしろうんせん》、立原翠軒《たちはらすゐけん》、野呂介石《のろかいせき》、田能村竹田等は悉その友人である。殊に田能村竹田は、………大いなる芸術家といふよりも寧ろ善い芸術家だつた竹田はこの老いたるディレツタントの前に最も美しい敬意を表した。「余|甫《はじ》めて冠して、江戸に東遊し、途に阪府を経、木世粛《もくせいしゆく》(即ち巽斎である。)を訪はんと欲す。偶々人あり、余を拉《らつ》して、将《まさ》に天王寺の浮屠《ふと》に登らんとす。曰、豊聡耳王《とよとみみのみこ》の創むる所にして、年を閲すること既に一千余、唯魯の霊光の巍然として独り存するのみならずと。余|肯《き》かず。遂に世粛を見る。明年西帰し、再び到れば、則ち世粛已に没し、浮屠も亦《また》梵滅《ぼんめつ》せり。」
 巽斎はかう云ふ名声のうちに悠々と六十年の生涯を了した。この六十年の生涯は無邪気なる英雄崇拝者には或は平凡に見えるかも知れない。巽斎の後代に伝へたものは名高い蒹葭堂コレクシヨンを除けば、僅かに数巻の詩文集と数幀《すうたう》の山水とのあるばかりである。しかし大正の今日さへ、帝国大学図書館の蔵書を平然と灰燼《くわいじん》に化せしめた、恬淡無欲なる我等の祖国は勿論蒹葭堂コレクシヨンをも無残なる散佚《さんいつ》に任かせてしまつた。アルコオル漬のダラアカは何処へ行つたか? 大雅や柳里恭の画は何処へ行つたか? クレオパトラの金髪は、――そんなものはどうなつても差支ない。が、畢竟蒹葭堂主人は寥々《れうれう》たる著書と画との外に何も伝へなかつたと言はなければならぬ。
 何も?――いや、必しも「何も」ではない。豊富なる蒹葭堂コレクシヨンは――殊にその万巻の蔵書は当代の学者や芸術家に大いなる幾多の先例を示した。是等の先例の彼等を鼓舞し、彼等を新世界へ飛躍せしめたのは丁度ロダンだのトルストイだの或は又セザンヌだのの我々を刺戟したのも同じことである。このペエトロン兼蒐集家たる木村巽斎の恩恵もやはり後代に伝へた遺産、――謹厳なる前人の批判によれば、最大の遺産に数へなければならぬ。けれども冷酷に言ひ放せば、それは丸善株式会社の我々に与へた恩恵と五十歩百歩の間にあるものである。少くとも所謂趣味に富んだ富豪或は富豪の息子の我々に与へ得る恩恵と五十歩百歩の間にあるものである。僕はかう云ふ恩恵の前に感謝の意を表するのを辞するものではない。しかし唯その為にのみ蒹葭堂主人を賛美するのは――第一に天下のペエトロンなるものを己惚《うぬぼ》れさせるだけでも有害である!
 もう一度便宜上繰り返すと、巽斎の後代に伝へたものは僅かに数巻の詩文集と数幀の山水とのあるばかりである。もし蒹葭堂コレクシヨンの当代に与へた恩恵の外に、巽斎の真価を見出さうとすれば、どうしても是等の作品に――少くともちよつと前に挙げた一幀の春山図に立ち帰らなければならぬ。あの画中に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]する春はたとへば偉大なる大雅のやうに、造化を自家の鍋の中に溶した無上の甘露味《かんろみ》には富んでゐない。と云つて又蕪村のやうに、独絶の庖丁を天地に加へた俊爽の風のないことも確かである。が、少しも凡庸ではない。丁度大きい微笑に似た、うらうらと明るい何ものかはおのづから紙の上に溢れてゐる。僕はその何ものかの中に蒹葭堂主人の真面目を、――静かに人生を楽しんでゐるディレツタントの魂を発見した。たとひ蒹葭堂コレクシヨンは当代の学者や芸術家に寸毫《すんがう》の恩恵を与へなかつたとしても、そんなことは僕の問ふ所ではない。僕は唯このディレツタントに、――如何に落寞たる人生を享楽するかを知つてゐた、風流無双の大阪町人に親しみを感ぜずにはゐられないのである。
 我々はパスカルの言つたやうに、ものを考へる蘆である。が、実はそればかりではない。一面にはものを考へると共に、他面には又しつきりなしにものを感ずる蘆である。尤も感ずると断らないにもせよ、風にその葉をそよがせるのは風を感ずるのと似てゐるであらう。しかし我々のものを感ずるのは必しもそれほど機械的ではない。いや、黄昏《たそがれ》の微風の中に万里の貿易風を感ずることも案外多いことは確かである。たとへば一本の糸杉は微風よりも常人を動かさないかも知れない。けれども天才に燃えてゐたゴツホはその一本の糸杉にも凄まじい生命を感じたのである。この故に落寞たる人生を十分に享楽する為には、微妙にものを考へると共に、微妙にものを感じなければならぬ。或は脳髄を具へてゐると共に、神経を具へてゐなければならぬ。果然古来のディレツタントは多少の学者であると共に、多少の芸術家であるのを常としてゐた。物産の学を究めると共に、画道に志した巽斎も正にかう云ふ一人である。微妙にものを考へると共に、微妙にものを感ずる蘆、――さう言へば巽斎は不思議にも蒹葭堂主人と号してゐた!
 しかし棘《とげ》のない薔薇はあつても、受苦を伴はない享楽はない。微妙にものを考へると共に、微妙にものを感ずる蘆は即ち微妙に苦しむ蘆である。この故に聡明なるディレツタントは地獄の業火を免れる為に、天堂の荘厳を捨てなければならぬ。更に手短かに言ひ換へれば、あらゆる悪徹底を避けなければならぬ。無邪気なる英雄崇拝者は勿論かう云ふディレツタントの態度を微温底とか何とか嘲るであらう。けれども微温底に住するの可否は享楽的態度の可否である。享楽的態度を否定するのは、――古来如何なる哲学と雖も、人生の使命を闡明《せんめい》するのに成功しなかつたことは事実である。昔はその不可なるを知つて、しかも仁《じん》を説いた孔丘さへ微温底なる中庸を愛してゐた。今はカフエに出没する以外に一事を成就しない少年までも灼熱底なる徹底を愛してゐる。が、それは兎も角も、貪慾に歓喜を求めるのは享楽を全うする所以ではない。巽斎も亦この例に洩れず、常に中庸を愛してゐた。巽斎自身行状を記した一巻の「蒹葭堂雑録」は如何にその心の秤《はかり》の平衡を得てゐたかを示すものである。由来貧富のロマンテイシズムほど文人墨客を捉へたものはない。彼等は大抵清貧を誇るか、或は又豪奢を誇つてゐる。しかしひとり巽斎だけは恬然と倹素に安んじてゐた。
「余家君の余資《よし》に因つて、毎歳受用する所三十金に過ぎず。其の他親友の相憐を得るが為めに、少しく文雅に耽ることを得たり。百事|倹省《けんせい》にあらずんば、豈今日の業を成んや。世人は余が実《じつ》を知らず。豪家の徒に比す。余が本意にあらず。」
 一年に三十両の収入と言へば、一月に二両二分の収入である。如何に宝暦《はうれき》明和《めいわ》の昔にもせよ、一月に二両二分の収入では多銭《たせん》善く買ふ訳にも行かなかつたであらう。しかもなほ文雅に耽つたばかりか、蒹葭堂コレクシヨンさへ残したのはそれ自身豪奢の俗悪なる所以を示してゐるものと言はなければならぬ。(生憎今は旅先にゐるから
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