である。この眼に猿蓑《さるみの》を見てゐるのである。この眼に「赤光」や「あら玉」を、――もし正直に云ひ放せば、この眼に「赤光」や「あら玉」の中の幾首かの悪歌をも見てゐるのである。
斎藤茂吉を論ずるのは上に述べた理由により、少くとも僕には余人よりも手軽に出来る芸当ではない。且又茂吉の歌の価値を論じ、歌壇に対する功罪を論じ、短歌史上の位置を論ずるのはをのづから人のゐる筈である。(たとひ今はゐないにしろ、百年の後には一人位、必ず茂吉を賛美するか、或は茂吉を罵殺《ばさつ》するか、どの道真剣に「赤光」の作者を相手どるものの出る筈である。)かたがた厳然たる客観の舞台に斎藤茂吉を眺めることは少時《しばらく》他日に譲らなければならぬ。僕の此処に論じたいのは何故に茂吉は後輩たる僕の精神的自叙伝を左右したか、何故に僕は歌人たる茂吉に芸術上の導者を発見したか、何故に僕等は知らず識らずのうちに一縷《いちる》の血脈を相伝したか、――つまり何故に当時の僕は茂吉を好んだかと云ふことだけである。
けれどもこの「何故に?」も答へるのは問ふのよりも困難である。と云ふ意味は必ずしも答の見つからぬと云ふのではない。寧ろ答
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