へ踏み入るには勿論浅薄を免れなかつた。のみならず僕に上田敏と厨川白村とを一丸にした語学の素養を与へたとしても、果して彼等の血肉を啖《くら》ひ得たかどうかは疑問である。(僕は今もなほ彼等の詩の音楽的効果を理解出来ない。稀に理解したと思ふのさへ、指を折つて見れば十行位である。)この故に当時彼等の詩を全然読まずにゐたとしても、必しも後悔はしなかつたであらう。けれども万一何かの機会に「赤光」の一巻をも読まなかつたとすれば、――これも実は考へて見れば、案外後悔はしなかつたかも知れない。その代りに幸福なる批評家のやうに、彼自身の色盲には頓着せず、「歌は到底文壇の中心的勢力にはなり得ない」などと高を括《くく》つてゐたことは確かである。
 且又《かつまた》茂吉は詩歌に対する眼をあけてくれたばかりではない。あらゆる文芸上の形式美に対する眼をあける手伝ひもしてくれたのである。眼を?――或は耳をとも云はれぬことはない。僕はこの耳を得なかつたとすれば、「無精さやかき起されし春の雨」の音にも無関心に通り過ぎたであらう。が、差当り恩になつたものは眼でも耳でも差支へない。兎に角僕は現在でもこの眼に万葉集を見てゐるの
前へ 次へ
全43ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング