十年の生涯は無邪気なる英雄崇拝者には或は平凡に見えるかも知れない。巽斎の後代に伝へたものは名高い蒹葭堂コレクシヨンを除けば、僅かに数巻の詩文集と数幀《すうたう》の山水とのあるばかりである。しかし大正の今日さへ、帝国大学図書館の蔵書を平然と灰燼《くわいじん》に化せしめた、恬淡無欲なる我等の祖国は勿論蒹葭堂コレクシヨンをも無残なる散佚《さんいつ》に任かせてしまつた。アルコオル漬のダラアカは何処へ行つたか? 大雅や柳里恭の画は何処へ行つたか? クレオパトラの金髪は、――そんなものはどうなつても差支ない。が、畢竟蒹葭堂主人は寥々《れうれう》たる著書と画との外に何も伝へなかつたと言はなければならぬ。
 何も?――いや、必しも「何も」ではない。豊富なる蒹葭堂コレクシヨンは――殊にその万巻の蔵書は当代の学者や芸術家に大いなる幾多の先例を示した。是等の先例の彼等を鼓舞し、彼等を新世界へ飛躍せしめたのは丁度ロダンだのトルストイだの或は又セザンヌだのの我々を刺戟したのも同じことである。このペエトロン兼蒐集家たる木村巽斎の恩恵もやはり後代に伝へた遺産、――謹厳なる前人の批判によれば、最大の遺産に数へなければ
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