那の哲学を愛した時代のかう云ふ蒹葭堂主人の多識に声誉を酬いたのは当然である。果然海内の文人墨客は巽斎の大名の挙がると共に、続々とその門へ集まり出した。柴野栗山《しばのりつざん》、尾藤《びとう》二|洲《しう》、古賀精里、頼春水、桑山玉洲《くはやまぎよくしう》、釧雲泉《くしろうんせん》、立原翠軒《たちはらすゐけん》、野呂介石《のろかいせき》、田能村竹田等は悉その友人である。殊に田能村竹田は、………大いなる芸術家といふよりも寧ろ善い芸術家だつた竹田はこの老いたるディレツタントの前に最も美しい敬意を表した。「余|甫《はじ》めて冠して、江戸に東遊し、途に阪府を経、木世粛《もくせいしゆく》(即ち巽斎である。)を訪はんと欲す。偶々人あり、余を拉《らつ》して、将《まさ》に天王寺の浮屠《ふと》に登らんとす。曰、豊聡耳王《とよとみみのみこ》の創むる所にして、年を閲すること既に一千余、唯魯の霊光の巍然として独り存するのみならずと。余|肯《き》かず。遂に世粛を見る。明年西帰し、再び到れば、則ち世粛已に没し、浮屠も亦《また》梵滅《ぼんめつ》せり。」
 巽斎はかう云ふ名声のうちに悠々と六十年の生涯を了した。この六
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