花簪《はなかんざし》を拵《こしら》へてゐる。――ああ、僕はあの貸本屋に何と云ふ懐かしさを感じるのであらう。僕に文芸を教へたものは大学でもなければ図書館でもない。正にあの蕭条《せうでう》たる貸本屋である。僕は其処に並んでゐた本から、恐らくは一生受用しても尽きることを知らぬ教訓を学んだ。超人と称するアナアキストの尊厳を学んだのもその一つである。成程超人と言ふ言葉はニイチエの本を読んだ後、やつと僕の語彙になつたかも知れない。しかし超人そのものは――大いなる岩見重太郎よ、伝家の宝刀を腰にしたまま、天下を睨んでゐる君の姿は夙《つと》に僕の幼な心に、敢然と山から下つて来たツアラトストラの大業を教へてくれたのである。あの貸本屋はとうの昔に影も形も失つたであらう。が、岩見重太郎は今日もなほ僕の中に溌溂《はつらつ》と命を保つてゐる。いつも人生の十字街頭に悠々と扇を使ひながら。

       木村巽斎

 今年の春、僕は丁度一年ぶりに京都の博物館を見物した。が、生憎その時は元来酸過多の胃嚢《ゐぶくろ》が一層異状を呈してゐた。韶を聞いて肉味を忘れるのは聖人のみに出来る離れ業である。僕は駱駝《らくだ》のシヤ
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