。人間も悠久なる六百万年の間には著しい進歩をするかも知れない。少くともその可能性を信ずることは痴人の談とばかりも云はれぬであらう。もしこの確信を事実とすれば、人間の将来は我々の愛する岩見重太郎の手に落ちなければならぬ。牢を破り狒を殺した超人の手に落ちなければならぬ。
僕の岩見重太郎を知つたのは本所御竹倉の貸本屋である。いや、岩見重太郎ばかりではない。羽賀井一心斎《はがゐいつしんさい》を知つたのも、妲妃《だつき》のお百を知つたのも、国定忠次を知つたのも、祐天上人《いうてんしやうにん》を知つたのも、八百屋《やほや》お七を知つたのも、髪結新三《かみゆひしんざ》を知つたのも、原田甲斐を知つたのも、佐野次郎左衛門を知つたのも、――閭巷無名《りよこうむめい》の天才の造つた伝説的人物を知つたのは悉《ことごと》くこの貸本屋である。僕はかう云ふ間にも、夏の西日のさしこんだ、狭苦しい店を忘れることは出来ぬ。軒先には硝子《がらす》の風鈴《ふうりん》が一つ、だらりと短尺をぶら下げてゐる。それから壁には何百とも知れぬ講談の速記本がつまつてゐる。最後に古い葭戸《よしど》のかげには梅干を貼つた婆さんが一人、内職の
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