御供を貪《むさぼ》つてゐる。牢獄も、――牢獄は市が谷にあるばかりではない。囚人たることにさへ気のつかない、新時代の服装をした囚人の夫婦は絡繹《らくえき》と銀座通りを歩いてゐる。
人間の進歩は遅いものである。或は蝸牛《くわぎう》の歩みよりも更に遅いものかも知れない。が、如何に遅いにもせよ、アナトオル・フランスの云つたやうに、「徐《おもむ》ろに賢人の夢みた跡を実現する」ことは事実である。いにしへの支那の賢人は車裂の刑を眺めたり、牛鬼蛇神《ぎうきだじん》の像を眺めたりしながら、尭舜《げうしゆん》の治世を夢みてゐた。(将来を過去に求めるのは常に我々のする所である。我々の心の眼なるものはお伽噺の蛙《かはづ》の眼と多少同一に出来てゐるらしい。)尭舜の治世は今日もなほ雲煙のかなたに横はつてゐる。しかし車はいにしへのやうに車裂の刑には使はれてゐない。牛鬼蛇神の像なども骨董屋の店か博物館に陳列されてゐるばかりである。よし又かう云ふ変化位を進歩と呼ぶことは出来ないにしろ、人間の文明は有史以来|僅々《きんきん》数千年を閲したのに過ぎない。けれども地球の氷雪の下に人間の文明を葬るのは六百万年の後ださうである
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