ね》を凝り成して以来、我々の真に愛するものは常にこの強勇の持ち主である。常にこの善悪の観念を脚下に蹂躙《じうりん》する豪傑である。我々の心は未だ嘗て罪悪の意識を逃れたことはない。青丹《あをに》よし奈良の都の市民は卵を食ふことを罪悪とした。と思へば現代の東京の市民は卵を食はないことを罪悪としてゐる。これは勿論卵ばかりではない。「我《が》」に対する信仰の薄い、永久に臆病なる我々は我々の中にある自然にさへ罪悪の意識を抱いてゐる。が、豪傑は我々のやうに罪悪の意識に煩はされない。実践倫理の教科書はもとより、神明仏陀の照覧さへ平然と一笑に附してしまふ。一笑に附してしまふのは「我」に対する信仰のをのづから強い結果である。たとへば神代の豪傑たる素戔嗚《すさのを》の尊に徴すれば、尊は正に千位置戸《ちくらおきど》の刑罰を受けたのに相違ない。しかし刑罰を受けたにしろ、罪悪の意識は寸毫《すんがう》も尊の心を煩はさなかつた。さもなければ尊は高天《たかま》が原《はら》の外に刑余の姿を現はすが早いか、あのやうに恬然《てんぜん》と保食《うけもち》の神を斬り殺す勇気はなかつたであらう。我々はかう云ふ旺盛なる「我」に我々
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