りも或は一層シエクスピイア的かも知れない。第一に近松はシエクスピイアのやうに殆ど理智を超越してゐる。(ラテン人種の戯曲家モリエエルの理智を想起せよ。)それから又戯曲の中に美しい一行を撒《ま》き散らしてゐる。最後に悲劇の唯中にも喜劇的場景を点出してゐる。僕は炬燵《こたつ》の場の乞食坊主を見ながら、何度も名高い「マクベス」の中の酔つ払ひの姿を思ひ出した。
 近松の世話ものは高山樗牛以来、時代ものの上に置かれてゐる。が、近松は時代ものの中にもロマン主義者に終始したのではない。これも亦多少シエクスピイア的である。シエクスピイアは羅馬《ロオマ》の都に時計を置いて顧みなかつた。近松も時代を無視してゐることはシエクスピイア以上である。のみならず神代《かみよ》の世界さへ悉《ことごと》く元禄時代の世界にした。それ等の人物も心理描写の上には存外|屡《しばしば》写実主義的である。たとへば「日本振袖始《にほんふりそではじめ》」さへ、巨旦《こたん》蘇旦《そたん》兄弟の争ひは全然世話もの中の一場景と変りはない。しかも巨旦の妻の気もちや父を殺した後の巨旦の気もちは恐らくは現世にも通用するであらう。まして素戔嗚《すさ
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