のを》の尊《みこと》の恋愛などは恐れながら有史以来少しも変らない××である。
近松の時代ものは世話ものよりも勿論|荒唐無稽《くわうたうむけい》である。しかしその為に世話ものにない「美しさ」のあつたことは争はれない。たとへば日本の南部の海岸に偶然漂つて来た船の中に支那美人のゐる場景を想像せよ。(国姓爺合戦《こくせんやかつせん》)それは僕等自身の異国趣味にも未だに或満足を与へるであらう。
高山樗牛は不幸にもこれ等の特色を無視してゐる。近松の時代ものは世話ものよりも必しも下にあるものではない。唯僕等は封建時代の市井《しせい》を比較的身近に感じてゐる。元禄時代の河庄《かはしやう》は明治時代の小待合に近い。小春は、――殊に役者の扮する小春は明治時代の芸者に似たものである。かう云ふ事実は近松の世話ものに如実《によじつ》と云ふ感じを与へ易い。しかし何百年か過ぎ去つた後、――即ち封建時代の市井さへ夢の中の夢に変つた後、近松の浄瑠璃をふり返つて見れば、僕等は時代ものの必ずしも下にゐないことを見出すであらう。のみならず時代ものは一面にはやはり世話ものと同時代の大名の生活を描いてゐる。しかもその世話もの
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