する為にするのである。若し自己を表現する為とすれば、……
 小説や戯曲も紅毛人の作品に或は遙かに及ばないかも知れない。が、批評も亦紅毛人の作品に遜色《そんしよく》のあるのは確かである。僕はかう云ふ荒蕪《くわうぶ》の中に唯正宗白鳥氏の「文芸評論」を愛読した。批評家正宗白鳥氏の態度は紅毛人の言葉を借りれば、徹頭徹尾ラコニツクである。のみならず「文芸評論」は必ずしも文芸評論ではない。時には文芸の中の人生評論である。しかも僕は巻煙草を片手に「文芸評論」を愛読した。時々石のごろごろした一本道を思ひ出しながら、その又一本道の日の光に残酷な歓びを感じながら。

     十六 文学的未開地

 イギリスは久しく閑却してゐた十八世紀の文芸に注目してゐる。それは一つには大戦の後には誰も陽気なものを求めてゐるからであらう。(僕は私《ひそ》かに世界中同じではないかと思つてゐる。同時に又大戦の為に打撃を受けない日本さへいつかこの流行に感染してゐるのも不思議なものだと思つてゐる。)しかし又一つには閑却してゐた為に文学者たちの研究に材料を与へ易い為もある訣である。雀は米のない流しもとへは来ない。文学者たちも同じこ
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