の祖先の生活を見てゐる。が、僕等は僕等ばかりではない。アフリカの沙漠に都会の出来る頃には僕等の子孫の祖先になるのである。従つて僕等の心もちは丁度地下の泉のやうに僕等の子孫にも伝はるであらう。僕は白柳秀湖氏のやうに焚き火に親しみを感じるものである。同時に又その親しみに太古の民を思ふものである。(僕は「槍ヶ岳紀行」の中にちよつとこのことを書いたつもりである。)しかし「猿に近い吾々の祖先」は彼等の焚き火を燃やす為にどの位苦心をしたことであらう。焚き火を燃やすことを発明したのは勿論天才だつたのに違ひない。けれどもその焚き火を燃やしつづけたものはやはり何人かの天才たちである。僕はこの苦心を思ふ時、不幸にも「今の芸術といふものなど、無くなつてしまつてもよい」とは考へない。
十五 「文芸評論」
批評も亦文芸上の一形式である。僕等の誉《ほ》めたり貶《けな》したりするのも畢竟《ひつきやう》は自己を表現する為であらう。幕の上に映つたアメリカの役者に、――しかも死んでしまつたヴアレンテイノに拍手を送つて吝《をし》まないのは相手を歓ばせる為でも何でもない。唯好意を、――惹《ひ》いては自己を表現
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