とであらう。従つて等閑に附せられることはそれ自身発見されることになる訣である。
 これは日本でも同じことである。俳諧寺|一茶《いつさ》は暫く問はず、天明以後の俳人たちの仕事は殆ど誰にも顧みられてゐない。僕はかう云ふ俳人たちの仕事も次第に顕《あらは》れて来ることと思つてゐる。しかも「月並み」の一言では到底片づけられない一面も次第に顕れて来ることと思つてゐる。
 等閑に附せられると云ふことも必しも悪いことばかりではない。

     十七 夏目先生

 僕はいつか夏目先生が風流漱石山人になつてゐるのに驚嘆した。僕の知つてゐた先生は才気|煥発《くわんぱつ》する老人である。のみならず機嫌の悪い時には先輩の諸氏は暫く問はず、後進の僕などは往生だつた。成程天才と云ふものはかう云ふものかと思つたこともないではない。何でも冬に近い木曜日の夜、先生はお客と話しながら、少しも顔をこちらへ向けずに僕に「葉巻をとつてくれ給へ」と言つた。しかし葉巻がどこにあるかは生憎《あいにく》僕には見当もつかない。僕はやむを得ず「どこにありますか?」と尋ねた。すると先生は何も言はずに猛然と(かう云ふのは少しも誇張ではない。)
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