い。先生は現世にも珍らしい耳を持つてゐた詩人である。たとへば「玉篋両浦嶼《たまくしげふたりうらしま》」を読んでも、如何に先生が日本語の響を知つてゐたかが窺《うかが》はれるであらう。これは又先生の短歌や俳句にも髣髴《はうふつ》出来ない訣ではない。同時に又体裁を成してゐることはいづれも整然と出来上つてゐる。この点では殆ど先生としては人工を尽したと言つても善いかも知れない。
 けれども先生の短歌や発句は何か微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ掴《つか》めば、或程度[#「或程度」に傍点]の巧拙《かうせつ》などは余り気がかりになるものではない。が、先生の短歌や発句は巧《かう》は即ち巧であるものの、不思議にも僕等に迫つて来ない。これは先生には短歌や発句は余戯に外ならなかつた為であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戯曲や小説にもやはり鋒芒《ほうばう》を露《あら》はしてゐない。(かう云ふのは先生の戯曲や小説を必しも無価値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の余戯だつた漢詩は、――殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが仏尊し」の譏《
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