かう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。
「話」らしい話のない小説は勿論|唯《ただ》身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙《はる》かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。もう一度画を例に引けば、デツサンのない画は成り立たない。(カンデインスキイの「即興」などと題する数枚の画は例外である。)しかしデツサンよりも色彩に生命を託した画は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明らかにこの事実を証明するのであらう。僕はかう云ふ画に近い小説に興味を持つてゐるのである。
 ではかう云ふ小説はあるかどうか? 独逸《ドイツ》の初期自然主義の作家たちはかう云ふ小説に手をつけてゐる。しかし更に近代ではかう云ふ小説の作家としては何びともジユウル・ルナアルに若《し》かない。(僕の見聞する限りでは)たとへばルナアルの「フイリツプ一家の家風」は(岸田国士氏の
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