厳密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何《いか》なる小説も成り立たないであらう。従つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。「ダフニとクロオと」の物語以来、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。「戦争と平和」も「話」を持つてゐる。「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。……
しかし或小説の価値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況《いはん》や話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外《らちぐわい》にある筈《はず》である。(谷崎潤一郎は人も知る通り、奇抜な「話」の上に立つた多数の小説の作者である。その又奇抜な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代の後にも残るであらう。しかしそれは必しも「話」の奇抜であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無《うむ》さへもかう云ふ問題には没交渉である。僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかし
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