ある。けれども西鶴の「子供地蔵」は勿論、モオパスサンの「ラルテイスト」も志賀直哉氏の作品には何の関係も持つてゐない。これは後世の批評家たちに模倣|呼《よば》はりをさせぬ為に特にちよつとつけ加へるのである。
六 僕等の散文
佐藤春夫氏の説によれば、僕等の散文は口語文であるから、しやべるやうに書けと云ふことである。これは或は佐藤氏自身は不用意の裡《うち》に言つたことかも知れない。しかしこの言葉は或問題を、――「文章の口語化」と云ふ問題を含んでゐる。近代の散文は恐らくは「しやべるやうに」の道を踏んで来たのであらう。僕はその著しい例に(近くは)武者小路実篤、宇野浩二、佐藤春夫等の諸氏の散文を数へたいものである。志賀直哉氏も亦この例に洩れない。しかし僕等の「しやべりかた」が、紅毛人の「しやべりかた」は暫く問はず、隣国たる支那人の「しやべりかた」よりも音楽的でないことも事実である。僕は「しやべるやうに書きたい」願ひも勿論持つてゐないものではない。が、同時に又一面には「書くやうにしやべりたい」とも思ふものである。僕の知つてゐる限りでは夏目先生はどうかすると、実に「書くやうにしやべる」
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