この一点に注目するもの」に傍点]はかう云ふ作品にも満足するであらう。世人の注目を惹《ひ》かなかつた、「廿代一面《にじふだいいちめん》」はかう云ふ作品の一例である。しかしその効果を収めたものは、(たとへば小品「鵠沼行《くげぬまゆき》」にしても)写生の妙を極めないものはない。次手《ついで》に「鵠沼行」のことを書けば、あの作品のデイテエルは悉く事実に立脚してゐる。が、「丸くふくれた小さな腹には所々に砂がこびりついて居た」と云ふ一行だけは事実ではない。それを読んだ作中人物の一人は「ああ、ほんたうにあの時には××ちやんのおなかに砂がついてゐた」と言つた!
 (三)[#「(三)」は縦中横] しかし描写上のリアリズムは必しも志賀直哉氏に限つたことではない。同氏はこのリアリズムに東洋的伝統の上に立つた詩的精神を流しこんでゐる。同氏のエピゴオネンの及ばないのはこの一点にあると言つても差し支へない。これこそ又僕等に――少くとも僕に最も及び難い特色である。僕は志賀直哉氏自身もこの一点を意識してゐるかどうかは必しもはつきりとは保証出来ない。(あらゆる芸術的活動を意識の閾《しきゐ》の中に置いたのは十年前の僕であ
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