釈するであらう」と正直に衷情《ちゆうじやう》を話してゐる。ハリスは又その言葉に「ゴルキイの未だに百姓であることはこの点に――即ち百姓育ちを羞《は》ぢる点に露はれてゐる」と註してゐる。
 中産階級の革命家を何人も生んでゐるのは確かである。彼等は理論や実行の上に彼等の思想を表現した。が、彼等の魂は果して中産階級を超越してゐたであらうか? ルツテルは羅馬加特力《ロオマカトリツク》教に反逆した。しかも彼の仕事を妨げる悪魔の姿を目撃した。彼の理智は新しかつたであらう。しかし彼の魂はやはり羅馬加特力教の地獄を見ずにはゐられなかつたのである。これは宗教の上ばかりではない。社会制度の上でも同じことである。
 僕等は僕等の魂に階級の刻印を打たれてゐる。のみならず僕等を拘束するものは必ずしも階級ばかりではない。地理的にも大は日本から小は一市一村に至る僕等の出生地も拘束してゐる。その他遺伝や境遇等も考へれば、僕等は僕等自身の複雑であることに驚嘆せずにはゐられないであらう。(しかも僕等を造つてゐるものはいづれも僕の意識の中に登つて来るとは限らないのである。)
 カアル・マルクスは暫らく問はず、古来の女子参政権論者はいづれも良妻を伴つてゐた。科学上の産物さへかう云ふ条件を示してゐるとすれば、芸術上の作品は――殊に文芸上の作品はあらゆる条件を示してゐる訣《わけ》である。僕等はそれぞれ異つた天気の下やそれぞれ異つた土の上に芽を出した草と変りはない。同時に又僕等の作品も無数の条件を具へた草の実である。若し神の目に見るとすれば、僕等の作品の一篇に僕等の全生涯を示してゐるのであらう。
 プロレタリア文芸は――プロレタリア文芸とは何であらう? 勿論第一に考へられるのはプロレタリア文明の中に花を開いた文芸である。これは今日の日本にはない。それから次に考へられるものはプロレタリアの為に闘ふ文芸である。これは日本にもないことはない。(若しスウイツルでも隣国だつたとすれば、或はもつと生まれたであらう。)第三に考へられるはコムミユニズムやアナアキズムの主義を持つてゐないにもせよ、プロレタリア的魂を根柢にした文芸である。第二のプロレタリア文芸は勿論第三のプロレタリア文芸と必ずしも両立しないものではない。しかし若し多少でも新しい文芸を生ずるとすれば、それはこのプロレタリア的魂の生んだ文芸でなければならぬ。
 僕は隅田
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