、浄瑠璃も韻文《ゐんぶん》である。そこには必ず幾多の詩形が眠つてゐるのに違ひない。唯別行に書いただけでも、謡曲はおのづから今日の詩に近い形を現はすのである。そこには必ず僕等の言葉に必然な韻律のあることであらう。(今日の民謡と称するものは少くとも大部分は詩形上|都々逸《どどいつ》と変りはない。)この眠つてゐる王女を見出すだけでも既に興味の多い仕事である。まして王女を目醒《めざ》ませることをや。
 尤も今日の詩は――更に古風な言葉を使へば、新体詩はおのづからかう云ふ道に歩みを運んでゐるかも知れない。又今日の感情を盛るのに昨日の詩形は役立たないであらう。しかし僕は過去の詩形を必ずしも踏襲《たふしふ》しろと言ふのではない。唯それ等の詩形の中に何か命のあるものを感ずるのである。同時に又その何かを今よりも意識的に[#「意識的に」に傍点]掴《つか》めと言ひたいのである。
 僕等は皆どう云ふ点でも烈しい過渡時代に生を享《う》けてゐる。従つて矛盾に矛盾を重ねてゐる。光は――少くとも日本では東よりも西から来るかも知れない。が、過去からも来る訣《わけ》である。アポリネエルたちの連作体の詩は元禄時代の連句に近いものである。のみならず数等完成しないものである。この王女を目醒まさせることは勿論誰にも出来ることではない。が、一人のスウインバアンさへ出れば――と云ふよりも更に大力量の一人の「片歌の道守り」さへ出れば……
 日本の過去の詩の中には緑いろのものが何か動いてゐる。何か互に響き合ふものが――僕はその何かを捉へることは勿論、その何かを生かすことも出来ないものの一人であらう。しかしその何かを感じてゐることは必ずしも人後に落ちないつもりである。こんなことは文芸上或は末の末のことかも知れない。唯僕はその何かに――ぼんやりした緑いろの何かに不思議にも心を惹《ひ》かれるのである。

     二十七 プロレタリア文芸

 僕等は時代を超越することは出来ない。のみならず階級を超越することも出来ない。トルストイは女の話をする時には少しも猥褻《わいせつ》を嫌はなかつた。それは又ゴルキイを辟易《へきえき》させるのに足るものだつた。ゴルキイはフランク・ハリスとの問答の中に「わたしはトルストイよりも礼儀を重んじてゐる。若しトルストイを学んだとしたらば、彼等はそれをわたしの素性《すじやう》の為と――百姓育ちの為と解
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