文芸的な、余りに文芸的な
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)若《も》し厳密に云ふとすれば
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)勿論|唯《ただ》身辺雑事を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1−84−22]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Du:ntzer〕 等の理想主義者たちは
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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一 「話」らしい話のない小説
僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。従つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない。)若《も》し厳密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何《いか》なる小説も成り立たないであらう。従つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。「ダフニとクロオと」の物語以来、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。「戦争と平和」も「話」を持つてゐる。「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。……
しかし或小説の価値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況《いはん》や話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外《らちぐわい》にある筈《はず》である。(谷崎潤一郎は人も知る通り、奇抜な「話」の上に立つた多数の小説の作者である。その又奇抜な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代の後にも残るであらう。しかしそれは必しも「話」の奇抜であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無《うむ》さへもかう云ふ問題には没交渉である。僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかし
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