川の川口に立ち、帆前船《ほまへせん》や達磨船《だるません》の集まつたのを見ながら今更のやうに今日の日本に何の表現も受けてゐない「生活の詩」を感じずにはゐられなかつた。かう云ふ「生活の詩」をうたひ上げることはかう云ふ生活者を待たなければならぬ。少くともかう云ふ生活者にずつと同伴してゐなければならぬ筈である。コムミユニズムやアナアキズムの思想を作品の中に加へることは必ずしもむづかしいことではない。が、その作品の中に石炭のやうに黒光りのする詩的荘厳を与へるものは畢竟《ひつきやう》プロレタリア的魂だけである。年少で死んだフイリツプは正にかう云ふ魂の持ち主だつた。
フロオベエルは「マダム・ボヴアリイ」にブウルジヨアの悲劇を描き尽した。しかしブウルジヨアに対するフロオベエルの軽蔑は「マダム・ボヴアリイ」を不滅にしない。「マダム・ボヴアリイ」を不滅にするものは唯フロオベエルの手腕だけである。フイリツプはプロレタリア的魂の外にも鍛《きた》へこんだ手腕を具へてゐる。するとどう云ふ芸術家も完成を目ざして進まなければならぬ。あらゆる完成した作品は方解石のやうに結晶したまま、僕等の子孫の遺産になるのである。たとひ風化作用を受けるにしても。
二十八 国木田独歩
国木田独歩は才人だつた。彼の上に与へられる「無器用」と云ふ言葉は当つてゐない。独歩の作品はどれをとつて見ても、決して無器用に出来上つてゐない。「正直者」、「巡査」、「竹の木戸」、「非凡なる凡人」……いづれも器用に出来上つてゐる。若《も》し彼を無器用と云ふならば、フイリツプも亦無器用であらう。
しかし独歩の「無器用」と云はれたのは全然理由のなかつた訣ではない。彼は所謂戯曲的に発展する話を書かなかつた。のみならず長ながとも書かなかつた。(勿論どちらも出来なかつた[#「出来なかつた」に傍点]のである。)彼の受けた「無器用」の言葉はおのづからそこに生じたのであらう。が、彼の天才は或は彼の天才の一部は実にそこに存してゐた。
独歩は鋭い頭脳を持つてゐた。同時に又柔かい心臓を持つてゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。従つて彼は悲劇的だつた。二葉亭四迷《ふたばていしめい》や石川啄木も、かう云ふ悲劇中の人物である。尤も二葉亭四迷は彼等よりも柔かい心臓を持つてゐなかつた。(或は彼等よりも逞《たくま》しい実行力を具
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