のを》の尊《みこと》の恋愛などは恐れながら有史以来少しも変らない××である。
近松の時代ものは世話ものよりも勿論|荒唐無稽《くわうたうむけい》である。しかしその為に世話ものにない「美しさ」のあつたことは争はれない。たとへば日本の南部の海岸に偶然漂つて来た船の中に支那美人のゐる場景を想像せよ。(国姓爺合戦《こくせんやかつせん》)それは僕等自身の異国趣味にも未だに或満足を与へるであらう。
高山樗牛は不幸にもこれ等の特色を無視してゐる。近松の時代ものは世話ものよりも必しも下にあるものではない。唯僕等は封建時代の市井《しせい》を比較的身近に感じてゐる。元禄時代の河庄《かはしやう》は明治時代の小待合に近い。小春は、――殊に役者の扮する小春は明治時代の芸者に似たものである。かう云ふ事実は近松の世話ものに如実《によじつ》と云ふ感じを与へ易い。しかし何百年か過ぎ去つた後、――即ち封建時代の市井さへ夢の中の夢に変つた後、近松の浄瑠璃をふり返つて見れば、僕等は時代ものの必ずしも下にゐないことを見出すであらう。のみならず時代ものは一面にはやはり世話ものと同時代の大名の生活を描いてゐる。しかもその世話ものほど如実と云ふ感じを与へないのは封建時代の社会制度の僕等を大名の生活とは縁の遠いものにしてゐる為である。九重《ここのへ》の雲の中にいらせられる御一人さへ不思議にも近松の浄瑠璃《じやうるり》を愛読し給うた。それは近松の出身によるか、或は又市井の出来事に好奇心を持たれた為かも知れない。しかし近松の時代ものに元禄時代の上流階級を感じられなかつたとも限らないのである。
僕は人形芝居を見物しながら、こんなことを考へてゐた。人形芝居は衰へてゐるらしい。のみならず浄瑠璃も原作通りに語つてゐないと云ふことである。しかし僕には芝居よりもはるかに興味の深いものだつた。
二十三 模倣
紅毛人は日本人の模倣に長じてゐることを軽蔑してゐる。のみならず日本人の風俗や習慣(或は道徳)の滑稽であることを軽蔑してゐる。僕は堀口|九万一《くまいち》氏の紹介した「雪さん」と云ふフランス小説の梗概《かうがい》を読み、(「女性」三月号所載)今更のやうにこの事実を考へ出した。
日本人は模倣に長じてゐる。僕等の作品も紅毛人の作品の模倣であることは争はれない。しかし彼等も僕等のやうにやはり模倣に長じてゐる。ホイツ
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