者であらう。しかし又一面にはやはり逞《たくま》しい写実主義者である。「小春治兵衛」の河内屋《かはちや》から鴈治郎《がんぢらう》の姿を抹殺せよ。(この為には文楽を見ることである。)そのあとに残るものは何でもない、人生の隅々へ目の届いた写実主義的戯曲である。成程そこには元禄時代の抒情詩もまじつてゐるのに違ひない。が、この抒情詩を持つてゐるものをロマン主義者と呼ぶとすれば、――ド・リイル・ラダンの言葉に偽りはない。僕等は阿呆でないとすれば、いづれもロマン主義者になる訣である。
元禄時代の戯曲的手法は今日よりも多少自然ではない。しかし元禄時代以後の戯曲的手法よりもはるかに小細工を用ひないものである。かう云ふ手法に煩《わづら》はされないとすれば、「小春治兵衛」は心理描写の上には決して写実主義を離れてゐない。近松は彼等の官能主義やイゴイズムにも目を注いでゐる。いや、彼等の中にある何か不思議なものにも目につけてゐる。彼等を死に導いたものは必ずしも太兵衛《たへゑ》の悪意ではない。おさん親子の善意も亦やはり彼等を苦しませてゐる。
近松は度々日本のシエクスピイアに比せられてゐる。それは在来の諸家の説よりも或は一層シエクスピイア的かも知れない。第一に近松はシエクスピイアのやうに殆ど理智を超越してゐる。(ラテン人種の戯曲家モリエエルの理智を想起せよ。)それから又戯曲の中に美しい一行を撒《ま》き散らしてゐる。最後に悲劇の唯中にも喜劇的場景を点出してゐる。僕は炬燵《こたつ》の場の乞食坊主を見ながら、何度も名高い「マクベス」の中の酔つ払ひの姿を思ひ出した。
近松の世話ものは高山樗牛以来、時代ものの上に置かれてゐる。が、近松は時代ものの中にもロマン主義者に終始したのではない。これも亦多少シエクスピイア的である。シエクスピイアは羅馬《ロオマ》の都に時計を置いて顧みなかつた。近松も時代を無視してゐることはシエクスピイア以上である。のみならず神代《かみよ》の世界さへ悉《ことごと》く元禄時代の世界にした。それ等の人物も心理描写の上には存外|屡《しばしば》写実主義的である。たとへば「日本振袖始《にほんふりそではじめ》」さへ、巨旦《こたん》蘇旦《そたん》兄弟の争ひは全然世話もの中の一場景と変りはない。しかも巨旦の妻の気もちや父を殺した後の巨旦の気もちは恐らくは現世にも通用するであらう。まして素戔嗚《すさ
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