ます。前者の馬の足跡に雨中の田舎道を浮かび出させてゐますし、後者は又稲妻形の風に大都市の往来を浮かび出させてゐます。かう言ふ例に富んでゐるのは勿論夏目先生に限りません。古来名作と称へられるものはいづれもこの妙所を具へてゐます。この妙所を捉へぬ限り、鑑賞上の十全を期することは――殊に創作上の利益を得ることは不可能と言つても好い位であります。
 尤も前にも述べた通り、細部に心を配ると言つても、それは只全篇の大意を見のがさない上の話であります。若《も》し細部に注意するのを「心の動かしかた」と称へるならば、この全篇の大意を捉へるのは「心の抑へかた」と言つても好いかと思ひます。或は又前者は「どう書いたか?」の問題、後者は「何を書いたか?」の問題と区別出来ないこともありません。次にはこの「何を書いたか?」の問題へ話を進めませう。
 前回に「何を書いたか?」の問題へ話を進めると言ひましたが、「文芸講座」もそろ/\完結に近づいた為にこの問題を論ずることは他日に譲る外はありません。尤もこれは前回にも既にちよつと話してゐますし、(第五号の「鑑賞講座」の二頁より三頁に亘る一節)又わたしの「文芸一般論」の「内容」の条《くだり》にも通ずることでありますから、必しも論ずるのを待ちますまい。唯手軽に実際上の用意だけに言及すれば、「何を書いたか?」を捉へる為には種々の教養も必要でありますが、何よりも心得なければならぬことはその作品の中の事件なり或は又人物なりを読者自身の身の上に移して見ること、――即ち体験に徴して見ることであります。これは小説や戯曲の鑑賞は勿論、抒情詩などの鑑賞にも多少の役に立つでせう。アナトオル・フランスの言葉の中に「わたしはわたし自身のことを書いてゐる。読者はそれを読む際に読者自身のことを考へられたい」とか言つてゐるのがありました。これは確かに好忠告であります。たとへばイブセンは「人形の家」の中に何を書いたかを知らうと思へば、あなたがたの夫婦生活を、――或はあなたがたの両親の夫婦生活を考へて御覧なさい。あなたがたは容易にノラの悲劇を捉へることが出来るのに違ひありません。或は現在あなたがたの向う三軒両隣にノラの悲劇の起つてゐることも発見出来る筈であります。我々は文芸上の作品を鑑賞する為にも畢竟《ひつきやう》我々自身の上に立ち戻つて来なければなりません。実際又我々の鑑賞力なるものも
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