丹念に目を配ることは一篇の大局を忘れない以上、微細に亘《わた》れば亘るほどよろしい。露西亜《ロシア》に生まれなかつた我々は到底トルストイの文章の末までも目を通すことは出来ません。それはやむを得ない運命でありますが、苟《いやし》くも外国人にも窺はれる所は悉《ことごとく》看破するだけの気組みを持たなければなりません。支那人は古来「一字の師」と言ふことを言ひます。詩は一字の妥当を欠いても、神韻を伝へることは出来ませんから、その一字を安からしめる人を「一字の師」と称するのであります。たとへば唐の任翻《じんはん》と言ふ詩人が天台山の巾子峰《きんしほう》に遊んだ時、寺の壁に一詩を題しました。その詩は便宜上仮名まじりにすると、「絶頂の新秋、夜涼を生ず。鶴は松露を翻して衣裳に滴る。前峰の月は照す、一江の水[#「一江の水」に白丸傍点]。僧は翠微《すゐび》に在つて竹房を開く。」と言ふのであります。が、天台山を去つて数十里――と言つても六町一里位でありませうが、兎に角数十里来るうちに、ふと任翻は「一江の水[#「一江の水」に白丸傍点]」よりも「半江の水[#「半江の水」に白丸傍点]」と言つた方が適切だつたことに気づきました。そこでもう一度御苦労にも巾子峰へ引き返して見ると、誰かもう壁に書いた「一江の水」を「半江の水」と書き改めてしまつた後でありました。先手を打たれた任翻はこの改作を眺めながら、しみじみ「台州(天台山のある土地の名)人有り」と長嘆したと言ふことであります。既に一篇の詩の生死は一字に関してゐるとすれば、「一字の師」は同時に又「一篇の師」にならなければなりません。これを鑑賞の上へ移すと、一字を知るものは一篇を知るもの、――或は一篇を知る為には一字を知らなければならぬと言ひ換へられる筈であります。今如何に一行の文章も等閑視し難いかを示す為に夏目先生を例に引いて見ませう。
 「木戸を開けて表へ出ると、大きな馬の足迹《あしあと》の中に雨が一杯たまつてゐた。」(「永日小品」の「蛇」)
 「風が高い建物に当たつて、思ふ如く真直に抜けられないので、急に稲妻に折れて、頭の上から斜《はす》に鋪石《しきいし》迄吹き卸ろして来る。自分は歩きながら、被つてゐた山高帽を右の手で抑へた。」(「永日小品」の「暖かい夢」)
 これはいづれも数語の中に一事件の起る背景を描いた辣腕《らつわん》を示してゐるものであり
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