文芸鑑賞講座
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)了《をは》る

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|頗《すこぶ》る

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+卒」、第3水準1−15−7]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そろ/\完結に近づいた
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 文芸上の作品を鑑賞する為には文芸的素質がなければなりません。文芸的素質のない人は如何なる傑作に親んでも、如何なる良師に従つても、やはり常に鑑賞上の盲人に了《をは》る外はないのであります。文芸と美術との相違はありますが、書画骨董を愛する富豪などにかう云ふ例の多いことは誰でも知つてゐる事実でありませう。しかし文芸的素質の有無と云ふことも程度によりけりでありますから、テエブルや椅子の有無のやうに判然ときめる訳には行かないのであります。たとへばわたし自身などはゲエテとかシエクスピイアと云ふ文豪なるものに比べれば、文芸的素質はないと言つてもよろしい。或はもつと下らぬ作家に比べても、ないに等しいかも知れません。けれども野田大塊《のだたいくわい》先生あたりに比べれば、文芸的素質――少くとも俳諧的素質は大いにある。これはあなたがたでも同じことであります。すると文芸に興味のある人はまづ文芸的素質もあるものと己惚《うぬぼ》れてかかつても差支へありません。少くとも己惚れてかかつた方が幸福であることは確かであります。
 では文芸的素質さへあれば、文芸上の作品を鑑賞することも容易に出来るものかと言ふと、これはさうは行きません。やはり創作と同じやうに、鑑賞の上にもそれ相当の訓練を受けることが必要であります。尤《もつと》もダンヌンツィオは十五の時に詩集を出したとか、池大雅は五つの時に書を善くしたとか言ふやうに、古来の英霊漢は創作の上にさへ、天成の才能を発揮してゐます。が、これは天才と称する怪物のことでありますから、我々凡人は気にかけずともよろしい。のみならず彼等の早熟は訓練を受けなかつたと言ふよりも、驚く可く短い時間の中に驚く可く深い訓練を受けたと言ふ方が妥当であります。すると我々凡人はいやが上にも訓練を受ける覚悟をしなければなりません。
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