をかぶらぬばかりではない。男は確かに砂埃《すなほこ》りにまみれたぼろぼろの上衣《うわぎ》を着用している。常子はこの男の姿にほとんど恐怖に近いものを感じた。
「何か御用でございますか?」
男は何とも返事をせずに髪の長い頭を垂れている。常子はその姿を透《す》かして見ながら、もう一度恐る恐る繰り返した。
「何か、……何か御用でございますか?」
男はやっと頭を擡《もた》げた。
「常子、……」
それはたった一ことだった。しかしちょうど月光のようにこの男を、――この男の正体を見る見る明らかにする一ことだった。常子は息を呑《の》んだまま、しばらくは声を失ったように男の顔を見つめつづけた。男は髭《ひげ》を伸ばした上、別人のように窶《やつ》れている。が、彼女を見ている瞳《ひとみ》は確かに待ちに待った瞳だった。
「あなた!」
常子はこう叫びながら、夫の胸へ縋《すが》ろうとした。けれども一足《ひとあし》出すが早いか、熱鉄《ねってつ》か何かを踏んだようにたちまちまた後ろへ飛びすさった。夫は破れたズボンの下に毛だらけの馬の脚を露《あらわ》している。薄明《うすあか》りの中にも毛色の見える栗毛《くりげ》の馬
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