みつびし》当事者のために夫人の便宜《べんぎ》を考慮するに吝《やぶさ》かならざらんことを切望するものなり。……」
 しかし少くとも常子だけは半年ばかりたった後《のち》、この誤解に安んずることの出来ぬある新事実に遭遇《そうぐう》した。それは北京《ペキン》の柳や槐《えんじゅ》も黄ばんだ葉を落としはじめる十月のある薄暮《はくぼ》である。常子は茶の間《ま》の長椅子にぼんやり追憶に沈んでいた。彼女の唇《くちびる》はもう今では永遠の微笑を浮かべていない。彼女の頬《ほお》もいつの間《ま》にかすっかり肉を失っている。彼女は失踪した夫のことだの、売り払ってしまったダブル・ベッドのことだの、南京虫《なんきんむし》のことだのを考えつづけた。すると誰かためらい勝ちに社宅の玄関のベルを押した。彼女はそれでも気にせずにボオイの取り次ぎに任かせて措《お》いた。が、ボオイはどこへ行ったか、容易に姿を現さない。ベルはその内にもう一度鳴った。常子はやっと長椅子を離れ、静かに玄関へ歩いて行った。
 落ち葉の散らばった玄関には帽子《ぼうし》をかぶらぬ男が一人、薄明《うすあか》りの中に佇《たたず》んでいる。帽子を、――いや、帽子
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