を勧《すす》め出した。しかし彼は熱心に細引を脚へからげながら、どうしてもその勧めに従わない。
「あんな藪《やぶ》医者に何がわかる? あいつは泥棒だ! 大詐偽《おおさぎ》師だ! それよりもお前、ここへ来て俺の体を抑《おさ》えていてくれ。」
 彼等は互に抱《だ》き合ったなり、じっと長椅子に坐っていた。北京《ペキン》を蔽《おお》った黄塵《こうじん》はいよいよ烈しさを加えるのであろう。今は入り日さえ窓の外に全然光と言う感じのしない、濁《にご》った朱《しゅ》の色を漂《ただよ》わせている。半三郎の脚はその間も勿論静かにしている訣《わけ》ではない。細引にぐるぐる括《くく》られたまま、目に見えぬペダルを踏むようにやはり絶えず動いている。常子は夫を劬《いた》わるように、また夫を励ますようにいろいろのことを話しかけた。
「あなた、あなた、どうしてそんなに震えていらっしゃるんです?」
「何《なん》でもない。何でもないよ。」
「だってこんなに汗をかいて、――この夏は内地へ帰りましょうよ。ねえ、あなた、久しぶりに内地へ帰りましょうよ。」
「うん、内地へ帰ることにしよう。内地へ帰って暮らすことにしよう。」
 五分
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